ごあいさつ

いつもありがとうございます。田中慧(たなかけい)と申します。

私は、これまでの国会議員秘書経験の中から、「基礎自治体の首長」の判断一つで、その自治体の住民福祉に多大な差異が生じることを実感し、また、「どうしてこういう判断をされないのか」というじくじたる思いをしたことも何度もありました。また、「自治体が国の制度を利用しきれていない」、という現実も目の当たりにしてきました。

私と南大隅町は、もともと何のご縁もない町です。しかし、仕事の関係でお付き合いのあった鹿児島ゆかりの友人から、「こういう町があって、今度町長選挙がある。挑戦しないか。」というお誘いをいただきました。

実は20代半ばのころ、同様に知人から、愛知県の市長選挙に出てくれないかと依頼されたことがありました。その当時は、「地方選挙は、その地元に根付いた、その地元出身の人が出るべきだ」との考えがあり、きっぱりとお断りをしました。

しかし、それから秘書としての経験を積むにつれ、全国各地の様々な取り組みを勉強する機会も増えました。その中で、疲弊した地方の再生、人口増に成功している自治体に共通していることが一つあることに気付きました。それは、「外からの人が新しい発見を地域にもたらし、もともと地域に住まう方々と連携してイノベーション(革新)を生み出している」ということです。地方創生の先駆自治体とされる島根県隠岐郡海士町の、そのきっかけとなった町長も、両親は外から島に越してきた方でした。いち早くインフラを整えて全国各地からITベンチャー企業の誘致に成功した徳島県神山町では、町が指定した民間団体主導の「逆指名制」の移住促進事業を成功させました。

そのような事例を勉強するにつれ、「もともと縁のない人が飛び込むからこそ、新しい価値を創造していける、それこそがその地域の住民の為になるし、国家全体に貢献することにつながるのではないか」との思いを強くします。

南大隅町での挑戦を決めた時、最初に私を政治の世界に導いてくれた、馬渡龍治さん(元鳩山邦夫先生秘書・元衆議院議員)にご挨拶をしたところ、「南大隅町といえば、鳩山邦夫先生が、よく蝶を採りに行ってたよ」と教えられました。どんなところにも探せば小さな縁があるものです。私はこの縁を大切にしたい。

今、南大隅町は、消滅の危機にあります。毎年数百人ずつ人口が減少し、最盛期には25000人近くいた住民が、2010年には8800人、そして今では既に6400人に。高齢化率(住民に占める65歳以上の方の割合)も5割近くに達し、将来の見通しも立たない状況です。

※南大隅町人口ビジョン(令和元年度改訂版)より

そうした状況に、特効薬はあるのか。国のあらゆる事業を誘致する覚悟と決意があれば、まだ間に合う。しかし今回が最後のチャンスだ、私はそう思います。

国が困っていることを南大隅が助ける、南大隅が困っていることを、国が助ける。その関係を築くことは、これまで国のど真ん中・永田町で働いてきた私だからこそできる、と自負しています。

思い起こせば、近代日本は鹿児島の地から始まりました。その明治維新も、薩摩大隅出身者だけでなく、薩摩藩の意気に応じて集まった外部の人材も大きな力を発揮しました。南大隅が元気になれば、鹿児島が元気になる。そして鹿児島が元気になれば、日本が元気を取り戻す。日本の端っこから日本全体を元気にする、これは南大隅の皆さんだからこそ、挑戦できることです。

私に鹿児島の血は流れていませんが、義父は鹿児島出身、つまり私の娘には鹿児島の血が流れています。私は娘に、誇りあるふるさと鹿児島を見せてあげたい。

私にこの大仕事をやらせてください。住民の皆様、お一人お一人のお声を伺いながら、共に汗をかかせていただきたい。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

田中けいの生い立ち

プロフィール


プロフィール写真
昭和57年(1982年)12月3日 福岡市生まれ
昭和60年 私立青葉幼稚園 入園
平成元年 那覇市立開南小学校 入学
平成7年 佐賀市立勧興小学校 卒業
平成7年 私立久留米大学附設中学校 入学
平成10年 私立久留米大学附設高等学校 入学
平成13年 東京大学理科一類 入学
平成16年 東京大学工学部 航空宇宙工学科 進学
平成21年 同上 中退
平成17年 衆議院議員 私設秘書
平成21年 衆議院議員 政策担当秘書 現職

趣  味:写真、野球、プラモデル、カラオケ
家  族:妻、娘、イヌ、ネコ、カメ
座右の銘:鼓腹撃壌(こふくげきじょう)

幼少期

新聞記者をしていた父、主婦をしていた母のもとに、田中家の二男として福岡市で生まれました。父は福岡市に赴任する前は鹿児島支局に勤務。生まれた福岡市には1歳まででしたのでほとんど記憶はありませんが、マンションの共有テラスで遊んでいたことは何となく覚えています。

1歳の時に父の転勤で小倉へ。幼稚園卒園の6歳まで過ごします。2歳年上の兄と同じ幼稚園(その後兄とは高校まで同じ)でしたので、年少組の私と、年長組の兄、1年だけ一緒に通いました。遠足が雨で中止になったとき、園内の好きなところでお弁当を食べよう、ということになり、私が兄のところに向かい、兄が私のところに向かい、ちょうど真ん中の階段で遭遇した、というエピソードがあるほど兄弟仲良く育ちました。

幼稚園の頃の習い事はピアノと水泳。ピアノは幼稚園でやめましたが、水泳は小学校まで続けました。同じ幼稚園の中で自分だけが違う色の水泳帽だったことが誇らしかったことを覚えています。

小学校

父の転勤にともない、小学校入学から沖縄県那覇市へ。入学した小学校は、市役所の隣にある開南小学校。卒業生には、のちに沖縄県知事となる仲井眞弘多氏や、のちに私の上司となる國場幸之助衆議院議員、後輩には、女優の、新垣結衣さんがいます。

沖縄には1年生から3年生まで在学しました。部活は、サッカー部。水泳も続け、運動会での選抜リレーにはクラス代表で選ばれるほど活発なスポーツ少年でした。

4年生への進学と同時に、再び父の転勤で佐賀市立勧興小学校へ転校。当時、マンガ「スラムダンク」が大人気だったこともあり、バスケットボール部に入部しましたが、水泳は鼻炎の悪化で4年生いっぱいでやめることに。しかしその後、6年生で佐賀市の大会に出場し、4位入賞を果たします。

6年生からは中学受験に向けた勉強に集中しました。塾でできた友達と競い合った日々は、今振り返っても人生で一番勉強をしていた時期かもしれません(笑)。

中学校~高校

久留米大学附設中学校へ進学します。父も転勤で久留米に赴任することになり、家族で久留米に引っ越ししました。中高一貫校で、高校受験がない分、中学生になにか取り組ませよう、ということで、中学には珍しく「卒論」の課題がありました。私は、報道番組を見ていた時に「中国では死刑判決が出ても執行されることはめったにない」というコメンテーターの発言を疑問に思ったことをきっかけに、「死刑制度」の歴史について調べることにしました。が、調べる過程で、「冤罪事件」にまつわる死刑制度と切っても切り離せない課題を知り、そちらに重点を置いた卒論となりました。旺文社賞や久留米大学理事長賞をいただきました。

高校にしか野球部はなかったのですが、昼休み、一人で壁に向かってボールを投げている私を見て、高校の軟式野球部の顧問の先生が、「練習に参加しろ」と誘ってくれました。高校ではそのまま野球部に入部。進学校のため、高校2年生の秋の大会での引退が慣例ですが、その大会で、県大会準優勝投手となることができました。

大学時代

東京大学理科一類を受験。前期試験では数学で大きなミスを犯し、予想通り不合格となりました。ダメ元で挑んだ後期試験で、開き直ったことが幸いしたのか、(おそらく)ギリギリの成績でなんとか合格。結果としては現役合格を果たすことができました。

大学では、準硬式野球部と学園祭の実行委員会に所属しましたが、残念ながら1年で肩を痛め、野球部は退部。その後は、学園祭に全力を注ぎました。2年目で駒場祭委員会事務局長、4年目には五月祭常任委員会委員長を務め、特に五月祭では、私の発案で、それまで学生主体のイベントだった学園祭に、大学当局や教授陣も巻き込み、オープンキャンパスや教授による最先端の研究を紹介する公開講座などを企画。来場者数を大幅に増やすことに成功し、委員会として、東大総長賞(総長:佐々木毅先生)を受賞しました。

念願の工学部航空宇宙工学科に進学しましたが、周囲のずば抜けて優秀な同級生に圧倒されながら、自分自身が本来やるべきこと、果たすべきことは何なのか、と自問する中で、大学の目の前にあった、鳩山邦夫先生の事務所の門をたたきました。大学に通うよりも鳩山事務所に通うことが多くなる中で、2005年の郵政選挙で、鳩山事務所の政策秘書だった馬渡龍治氏が当選。人手不足の中で秘書としての勤務を誘われ、大学を休学して永田町の世界に飛び込むことを決意。その後、政策担当秘書試験に合格し、秘書としての資格を得たことから、大学も中退するに至りました。今でも両親には申し訳なく思っています。

秘書として

それから15年、基本的には永田町で、時に地元秘書として、様々な政策の実現や要望の実現に取り組んできました。朝5時に出勤し、夜0時近くまで働く、それが当たり前の毎日です。特にこの1年、コロナ禍が始まってからは地元のあらゆる声を吸い上げ、そして、政府のあらゆる支援策をどのように国民の方々に周知するか、に心を砕きました。支援策の中でも「ここがこういう条件だと適用されない」といった、現場で起きていることを官僚にぶつけ、制度改正に取組み、そしてフィードバックする、その繰り返しでした。

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