プロフィール写真
昭和57年(1982年)12月3日 福岡市生まれ
昭和60年 私立青葉幼稚園 入園
平成元年 那覇市立開南小学校 入学
平成7年 佐賀市立勧興小学校 卒業
平成7年 私立久留米大学附設中学校 入学
平成10年 私立久留米大学附設高等学校 入学
平成13年 東京大学理科一類 入学
平成16年 東京大学工学部 航空宇宙工学科 進学
平成21年 同上 中退
平成17年 衆議院議員 私設秘書
平成21年 衆議院議員 政策担当秘書 現職

趣  味:写真、野球、プラモデル、カラオケ
家  族:妻、娘、イヌ、ネコ、カメ
座右の銘:鼓腹撃壌(こふくげきじょう)

幼少期

 新聞記者をしていた父、主婦をしていた母のもとに、田中家の二男として福岡市で生まれました。父は福岡市に赴任する前は鹿児島支局に勤務。生まれた福岡市には1歳まででしたのでほとんど記憶はありませんが、マンションの共有テラスで遊んでいたことは何となく覚えています。

 1歳の時に父の転勤で小倉へ。幼稚園卒園の6歳まで過ごします。2歳年上の兄と同じ幼稚園(その後兄とは高校まで同じ)でしたので、年少組の私と、年長組の兄、1年だけ一緒に通いました。遠足が雨で中止になったとき、園内の好きなところでお弁当を食べよう、ということになり、私が兄のところに向かい、兄が私のところに向かい、ちょうど真ん中の階段で遭遇した、というエピソードがあるほど兄弟仲良く育ちました。

 幼稚園の頃の習い事はピアノと水泳。ピアノは幼稚園でやめましたが、水泳は小学校まで続けました。同じ幼稚園の中で自分だけが違う色の水泳帽だったことが誇らしかったことを覚えています。

小学校

 父の転勤にともない、小学校入学から沖縄県那覇市へ。入学した小学校は、市役所の隣にある開南小学校。卒業生には、元沖縄県知事の仲井眞弘多氏や、のちに私の上司となる國場幸之助衆議院議員、後輩には、女優の、新垣結衣さんがいます。

 沖縄には1年生から3年生まで在学しました。部活は、サッカー部。水泳も続け、運動会での選抜リレーにはクラス代表で選ばれるほど活発なスポーツ少年でした。

 4年生への進学と同時に、再び父の転勤で佐賀市立勧興小学校へ転校。当時、マンガ「スラムダンク」が大人気だったこともあり、バスケットボール部に入部しましたが、水泳は鼻炎の悪化で4年生いっぱいでやめることに。しかしその後、6年生で佐賀市の大会に出場し、4位入賞を果たします。

 6年生からは中学受験に向けた勉強に集中しました。塾でできた友達と競い合った日々は、今振り返っても人生で一番勉強をしていた時期かもしれません(笑)。

中学校~高校

 久留米大学附設中学校へ進学します。父も転勤で久留米に赴任することになり、家族で久留米に引っ越ししました。中高一貫校で、高校受験がない分、中学生になにか取り組ませよう、ということで、中学には珍しく「卒論」の課題がありました。私は、報道番組を見ていた時に「中国では死刑判決が出ても執行されることはめったにない」というコメンテーターの発言を疑問に思ったことをきっかけに、「死刑制度」の歴史について調べることにしました。が、調べる過程で、「冤罪事件」にまつわる死刑制度と切っても切り離せない課題を知り、そちらに重点を置いた卒論となりました。旺文社賞や久留米大学理事長賞をいただきました。

 高校にしか野球部はなかったのですが、昼休み、一人で壁に向かってボールを投げている私を見て、高校の軟式野球部の顧問の先生が、「練習に参加しろ」と誘ってくれました。高校ではそのまま野球部に入部。進学校のため、高校2年生の秋の大会での引退が慣例ですが、その大会で、県大会準優勝投手となることができました。

大学時代

 東京大学理科一類を受験。前期試験では数学で大きなミスを犯し、予想通り不合格となりました。ダメ元で挑んだ後期試験で、開き直ったことが幸いしたのか、(おそらく)ギリギリの成績でなんとか合格。結果としては現役合格を果たすことができました。

 大学では、準硬式野球部と学園祭の実行委員会に所属しましたが、残念ながら1年で肩を痛め、野球部は退部。その後は、学園祭に全力を注ぎました。2年目で駒場祭委員会事務局長、4年目には五月祭常任委員会委員長を務め、特に五月祭では、私の発案で、それまで学生主体のイベントだった学園祭に、大学当局や教授陣も巻き込み、オープンキャンパスや教授による最先端の研究を紹介する公開講座などを企画。来場者数を大幅に増やすことに成功し、委員会として、東大総長賞(総長:佐々木毅先生)を受賞しました。

 念願の工学部航空宇宙工学科に進学しましたが、周囲のずば抜けて優秀な同級生に圧倒されながら、自分自身が本来やるべきこと、果たすべきことは何なのか、と自問する中で、大学の目の前にあった、鳩山邦夫先生の事務所の門をたたきました。大学に通うよりも鳩山事務所に通うことが多くなる中で、2005年の郵政選挙で、鳩山事務所の政策秘書だった馬渡龍治氏が当選。人手不足の中で秘書としての勤務を誘われ、大学を休学して永田町の世界に飛び込むことを決意。その後、政策担当秘書試験に合格し、秘書としての資格を得たことから、大学も中退するに至りました。今でも両親には申し訳なく思っています。

 大学時代のアルバイトは、ステージ設営や家電量販店でのデジカメ販売員、引っ越し作業員、変わったものでは、パチスロマシーンの開発(デバッグのための、1コマずつの目押し作業、疲れます!!)を経験しました。デジカメ販売員の経験からカメラに興味を持ち、一眼レフカメラを購入、今も趣味にしています。

秘書として

 それから15年、基本的には永田町で、時に地元秘書として、様々な政策の実現や要望の実現に取り組んできました。

 自分の書いた原稿が、国会の議事録として永遠に残る、裏方ではあっても、この充実感は何物にも代えがたいものです。特に、次世代の党結党という、小さいとはいえ、一つの党を立ち上げていく過程に関われたこと、また、当時の平沼代表の代表質問の原稿を一部任されたことなどは、生涯の誇りとするところです。

 様々なご要望・陳情を処理する中で、自治体の方が国の方針をよく知らないまま勝手に判断して、地域住民のチャンスを奪ってしまったり、本来受けられるはずの支援が受けられていなかった、というような実態も目の当たりにしました。そのような経験を通じて、地方自治体の意識を変えていくことが国民福祉の増大に直結する、ということを学びました。

 朝5時に出勤し、夜0時近くまで働く、それが当たり前の日々でした。特にこの1年、コロナ禍が始まってからは地元のあらゆる声を吸い上げ、そして、政府のあらゆる支援策をどのように国民の方々に周知するか、に心を砕きました。支援策の中でも「ここがこういう条件だと適用されない」といった、現場で起きていることを官僚にぶつけ、制度改正に取組み、そしてフィードバックする、その繰り返しでした。

 そのような生活をする中でも、4年前にお誘いいただいた南大隅のことは常々頭にありました。南大隅の皆様は、真剣に、町の将来を憂いています。実際、お付き合いのある方で、すでに他陣営に関わってらっしゃる方でも、「南大隅のために必要なことは何か、話を聞かせていただきたい」とお願いすれば、よろこんで駆けつけてくれ、様々なご示唆をいただきました。そこには、「誰がリーダーになるにせよ、とにかくこの町をなんとかしたい」という篤い思いがありました。その思いにこたえていくために、お一人お一人に直接向き合う活動をしてまいります。

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