三笠宮寛仁親王殿下エッセイ

平成17年、小泉政権下でいわゆる”女系天皇”に移行すべきか否か、国論を二分した議論が行われていた中、三笠宮寛仁親王殿下が「柏朋会」会報「ざ・とど」第88号に寄稿されたエッセイ。皇位継承問題が国政選挙の争点の一つとなる中、歴史的な意義が大きいと思われますので、インターネット上にもとどめるべきと考え、記録します。

去る六月十三日(月)、イイノホールで第二十九回愛のコンサートが開催され、山下洋輔氏と辛島文雄氏のピアノデュオと、両氏とトランペットの日野皓正氏のトリオという、本邦初演の凄まじい迫力のジャズを聴く事が出来ました。

ピアノのお二人の名前は共に有名ですから知っていましたが、トップスター同士の共演というのは今迄一度も無く、神津善行音楽監督は苦労された様ですが、双方の友人の日野皓正氏が間を取り持って下さって、豪華絢爛なメンバーの素晴らしいステージが成立しました。

今年は来年(第三十回)の為に助走期間を置くべく通常の十月ではなく六月に”ミニコン”というつもりで中ホールでの開催にしましたが、余りの凄さに六九四席では、もったいないと思いましたが、打ち上げ会で辛島氏と話してみたら、今回のサイズが聴衆と一体になれる丁度良い大きさとの事で安心しました。それでももっと多くのジャズファンに聴かせてあげたいとマジに思いました。

扠(さて)、世間では「女帝問題」が囂(かまびす)しいので私の意見を、『ともさんのひとり言』として聞いて頂きます。本来は首相傘下の審議会に諮られていますので政治問題であり口出しできないのですが、本会報は市販されておらず”身内”の小冊子と理解し”プライヴェート”に語るという体裁を取ります。

論点は二つです。一つは二六六五年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのかどうかです。

万世一系、一二五代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、「男系」で今上陛下迄続いてきているという厳然たる事実です。生物学的に言うと、高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば、神武天皇のY1染色体が継続して現在の皇室全員に繋がっているという事でもあります。

歴史上八名十方(御二人が二度践祚されている)の、「女帝」がおられましたが、全員在世中、独身又は寡婦(未亡人)でいらして、配偶者を求められておられませんので、「男系」が守られ、「女系」には至っていない訳です。

二つ目は、現在のままでは、確かに”男子”が居なくなりますが(註:この時点では悠仁親王殿下ご誕生前)、皇室典範改正をして、曾て歴史上現実にあった幾つかの方法論をまず取り上げてみる事だと思います。順不同ですが、

①臣籍降下された元皇族の皇籍復帰。

②現在の女性皇族(内親王)に養子を元皇族(男系)から取る事が出来る様に定め、その方に皇位継承権を与える。(差し当り内廷皇族と直宮のみに留める)

③元皇族に、廃絶になった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)

以上のような様々な方法論を駆使してみる事が先決だと思います。

④として、昔の様に、「側室」を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外ともに今の世相からは少々難しいかと思います。

余談ですが、明治・大正両天皇共に、「御側室」との間のお子様です。「継続は力なり」と言いますが、古代より国民が、「万世一系の天子様」の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるが故に、現在でも大多数の人々は、「日本国の中心」「最も古い家系」「日本人の原型」として、一人一人が何かしら”体感”し、「天子様」を明確な形であれ、否とに拘らず、敬って下さっているのだと思います。

陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりませんから、民主主義の世であるならば、国民一人一人が、我が国を形成する、「民草」の一員として、二六六五年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、日本国という、「国体」の変更に向かうことになりますし、いつの日か、「天皇」はいらないという議論に迄発展するでしょう。

難しい話はこの位にして目出度い話をします。

本年の十二月二日が来ると、父は満九十歳を迎え、「卒寿」という事になります。今回初めて知った事ですが、「卒」の俗字が、「卆」であり、「九と十」に分解出来るから、「卒寿」と言うのだそうです。

この事は素晴らしい事であり、且つ、父は耳が少々聞こえなくなっている処を除けば元気一杯であるのは誠に御同慶の至りですが、恐ろしい事に、その一ケ月後には私が、「還暦」(明年一月五日)を迎える訳で、九十歳の父親と六十歳の長男というのは何ともはや、喜んでいいのか双方共に長生きし過ぎたと言うべきか判断に困ります。

織田信長が本能寺で、「人生五十年下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか・・・・・・、」と謡いつつ自刃した頃から昭和二十年迄、我が国の平均寿命は、五十歳でした。戦後六十年で、男女共に七十歳後半・八十歳前半迄伸びたのですから吃驚仰天ですが、我が家は足して二で割ると丁度程々になる訳です。

先般、姉と共に弟の公邸に出向き三名でお祝いの計画をしたのですが、三人共、「多分これが最後のお祝いであろうから、父の全ての知り人を招こう!」と言う事で一致しました。父は現状からすると百歳を軽く超えるかも知れませんが、我々(母も含む)がとてもそこ迄生きるのは難しかろうというのがその「心」です。

父の学習院初等科・士官学校・陸大・東大時代の友人知人。戦後彼が総裁・会長等々を務めた学会・スポーツ界を始めとする数多ある仕事上の知己、そして親族・親戚を含めると膨大な名簿が出来上がると思いますが、その内どの位の人々が既にこの世に居ないのかを調べるのも大変そうな作業です。

わが公邸のスペースから言うと招待主である母と兄弟姉妹及びその連れ合いや子供達を除いて、「客人九十名」だと格好良いですし、ピタリ収まるのですが、何名の方々が、「出席」と書いて下さるか楽しみな事です。

終りに、右記の事柄とも密接に重なるのですが、当宮家のブラック・ジョークを一つ。

御承知の様に、秩父宮・高松宮・三笠宮といった、「宮号」は、町方の、「屋号」と同じく当主が名乗るもので、前記三笠宮は各々の、「宮号」を先帝陛下から賜っておられます。

私の兄弟は男三人ですから次弟・三弟は分家せざるを得なく各々、「桂宮」「高円宮」の、「宮号」を頂戴しています。がしかし私の場合長男ですから、父の、「宮号」を継がねばならず、父が薨去しないと、「三笠宮」は名乗れません。

人々は多分不思議に思っているのでしょうが、友人・知人のお葬式に兄弟三宮が供花する場合、木札には右から「寛仁親王・桂宮・高円宮」と墨痕鮮やかに書かれています。知らない人は、寛仁親王のみが何らかの障害の為、今だに部屋住の身分と考え違いをしているのではないかと不安になります。

ともあれB・Jとは、父があれだけ”健康健ちゃん”である為に、「下手をすると七度も手術を食らった”重度障害のともさん”は、遂『三笠宮』を名乗る事無く”寛仁親王”のままで終るのではないか?

この発想は極めて現実的な話だろう!」というものです。

因みに、父の、「卒寿のお祝い」は、双方が、九十歳・六十歳を迎えた後、明年一月十四日に当宮邸にて挙行するつもりです。