嫌沖縄秘書といわれて

これまで反基地運動の「やり方」について批判することで、「沖縄を嫌ってる秘書」「デマ屋」とのレッテルを貼られてきましたが、事務所を辞めるにあたって一言申し上げておくと、私は沖縄が大好きです。政治の世界に入った時から、いつかは沖縄のために働きたいと思ってました。

4年前、「超有名な」事務所を辞めて、町長選に地元の方からお声がけをいただき準備を進めましたが、結局現職が勇退されないことで出ないことになった、その時に声をかけていただいたのが、國場代議士でした。その電話は鹿児島にいるときに受けました。

衆議院の事務局に政策担当秘書資格保持者のリスト・履歴書が保管されており、それを見た國場代議士から連絡をいただいたんです。最初の電話で、「小学校の後輩だからですか?」と聞いたらむしろ驚かれたんですが、考えてみたら履歴書に小学校までは記載されてませんでした。

それから4年間、ほんとに沖縄の為だけを思って、國場代議士がそうだから、でもあるんですが、働いてきました。Twitterでの発言で迷惑かけてばかりでしたが、そんな私もずっと許容してくれた國場代議士には感謝しかありません。

私の心のふるさとは今でも沖縄です。小学生の時、毎週のように遊びに行った美しい海、毎日学校帰りに夜まで居座っててもお叱りの一つもなかった友人たちのご家族、何人かは仕事しながら那覇で再会出来ました。楽しい思い出しかありません。

そもそも、私の両親は沖縄で、海洋博で、出会いました。母は三菱館のコンパニオン、父は取材に入った新聞記者。海洋博は沖縄の本土復帰を記念して開催された万博です。あのタイミングで沖縄の本土復帰がなければ私自身がこの世に存在することがなかった、いわば私自身も沖縄に宿命づけられた存在です。

沖縄と本土との分断を企図する論調の多い右派左派それぞれの論陣を苦々しく見てました。その中で、やはり行き過ぎではないか、というものには遠慮なく苦言を呈してきたつもりです。それが秘書のノリを超えていたというお叱りは真摯に受け止めなくてはなりません。

前回の知事選、那覇市長選の時に、たまたま選挙事務所内の私の机の横に同じく小学校の先輩である仲井眞元知事が毎日陣取ってくださり、様々、ご指導をいただく機会を得たことは誠に貴重な経験でした。その中で私の意見に対するお叱りも多々いただきました。まだまだ未熟です。

今もなお、沖縄には様々な課題が山積していますし、その解決のために私ができることはこれからも協力していきたいです。が、沖縄には私と同世代、あるいははるかに若いながら、必死に戦っている素晴らしい仲間がいます。まずは彼らにすべてを託します。

沖縄の可能性は無限大、國場代議士が常々おっしゃってることです。私もこの言葉を信じます。ありがとうございます。