生存権、生活保護

 タレント活動もしている方がYoutubeで生活保護を切り捨てるべき、という主張をして沸騰しています。これに対して、「命の平等」の観点から反論する論調が見えました。もちろん命は平等であるべきですが、そもそも命が平等でないと思っている人に「平等だ」という反論が意味があるものなのか、と思うところもあるので、別の観点から、生活保護制度が必要な理由を指摘したいと思います。

 生活保護を受給している方は、全員が「怠け者」であったわけではありません。まじめに生きていたのに、頑張って生きてきたのにある日突然の不運な不幸に見舞われ、生活保護を受けている方もたくさんいます。

 以前、犯罪被害者の保護に尽力する議員に仕えていた時に知った事例です。

 ある女性がまったく逆恨みの犯罪被害に遭った。重傷で後遺症のために生涯通院を余儀なくされた。まともな仕事に就くこともできなくなった。しかし莫大な医療費がかかり続ける。我が国の犯罪被害者保護は、一時金があるとはいえ脆弱です。犯人に対して民事で損害賠償を勝ち取れたとしても、犯人自身に資力がなければまったく意味を成しません。その被害女性は、医療費が無料となる生活保護を利用することを選択しました。彼女は、決して他者と比べて能力が劣っていたわけでも、怠けていたわけでもありません。ただ、不運だった。犯罪被害によって、生活保護を受給し続けなければ生きていくことができない。そんな女性が実際にいらっしゃる。

 この女性だけでなく、誰でも、私もあなたも、こうした不運から生活保護に頼らなければならなくなることはありうる。生活保護受給者が「怠け者だ」「能力に劣っているからだ」と思い込むのは簡単ですが、そうした事実があるということを知ることで、そういう人だけではない、ということに気付いてほしいです。

 また、社会保障が整っているからこそ挑戦者が存在できる、ということも忘れてはなりません。すでに経営者以外の第三者に保証人を求めることは禁止され、今後は経営者に個人保証を求めることも禁止される方向に議論が進んでいます。「事業に失敗すれば生きていくこともできない」という社会であれば、起業や事業拡大に抑制的になり、イノベーションの機会も失われていきます。今、生活保護を受給している方も、かつては事業を起こし企業を経営し、多くの雇用を生み出し、社会に大きな価値を提供していたかもしれません。生活保護制度が無くなることで「挑戦しよう」という気概が社会から失われる、その損失がいかに大きくなるか、容易に想像できましょう。

 人間が群れを作り社会を形作り、そして社会を運営するために政治があります。我が国では民主主義の中で社会保障の手厚さは左右されますが、人類が原人であった時代から生産できなくなった老人でも若者がしっかりと面倒を見ていた痕跡は見つかっています。一見不合理に見えながらも、そうした社会を形成してきたことが人類が地球上に君臨する原動力となりえたのではないでしょうか。

 生活保護を受給することは国民の権利です。恥ずかしいと思う必要もありません。不正受給を適正化することと、生活保護を充実することは決して対立するものでもありません。